戦国・三国ちゃんねる

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加藤清正は名将です、疑う余地はありません

2010/02/01(月) 00:37:34

1 :人間七七四年:2007/03/17(土) 15:42:51 ID:0Nj6VhR5
秀吉子飼いの最高の武将。七本槍の1人で朝鮮の役での虎退治等
武勇に秀でる反面、築城の名人でもあり、又、名古屋城築城の際、
福島正則を宥めた話もあるよう、分別も十分もっていた武将。
武断派武将とは折り合いが悪かった石田三成も、清正は評価していた。

熊本ではせいしょこさんとして親しまれています。




3 :人間七七四年:2007/03/17(土) 15:50:44 ID:HLBGFppm
熊本県人以外の日本人には、人気のない人物と思われる。
五月人形では、清正公は関帝と並んで多いけど。




4 :仙台藩百姓:2007/03/17(土) 15:55:59 ID:275ig+1c
司馬作品に清正は当時から民衆が群がるほど大人気だったと書いてあったけど
本当かお?( ^ω^)






6 :人間七七四年:2007/03/17(土) 16:50:01 ID:B0eIWkvm
司馬は清正好きだからな。関係ない「新説宮本武蔵」にも出してくるくらいだし。
まあ普通に人気はあっただろう。武勇に優れているというのは民衆には
受けるもんだ。民衆が為政者を見かける機会もあまりなく、対話の場もない
であろうこの時代、風貌と噂ぐらいでしか為政者を評価できないだろうから。
ごつい容貌(あくまで想像でしかないが)と数々の戦歴を持つ清正は、
さぞ頼もしく思われただろう。

でもやっぱ、名将というよりは猛将という感じなんだよなぁ。




7 :人間七七四年:2007/03/17(土) 17:13:29 ID:0fRI0J2u
結局あれだけ嫌ってた光成を英雄にしてしまって、自分は卑怯な裏切り者として後世に名を残したんだから
間抜けな役回りだよね。
武勇も民治も築城もひとかどのものがあっただけに憐れを誘う。
半兵衛ぐらいの時期に1人前の年齢で随身して秀吉からあれこれ手先として使われてれば、かなりの名を
残した気がする。
才はあったけど頭の器ではなかったという事だろうね。



9 :人間七七四年:2007/03/18(日) 12:00:59 ID:xpKed6YJ

>>7
それはない。むしろ三成は未だに世間では君側の奸という見方が多い。

清正って虎退治の逸話があるからすごい猛将扱いされてるけど
実際には、内政も出来た、つーかむしろ内政面での実績の方が多かったみたいだね。
あと、三成と仲が悪かったエピソード多いけどそのほとんどは朝鮮出兵以後の物が多いから
もしかしたら朝鮮出兵の前はそれほど仲悪くなかったかも。



10 :人間七七四年:2007/03/18(日) 22:03:21 ID:iUtS93h3
武勇の人のイメージがあるけど、小心モノでごますりの名人だった。
事務能力はあったらしい。



11 :人間七七四年:2007/03/18(日) 23:05:03 ID:8gDCcLaP
地震加藤のごますりエピソードは有名だ


12 :人間七七四年:2007/03/27(火) 16:41:21 ID:9DY23eKL
肥後の熊本いくさにゃ清正公、戦も上手、商売も、人を使うも又上手

肥後殿は、お馬に乗ってハイシドウドウ。
馬は何馬帝釈天、馬上ゆたかな御威勢は、真に立派な清正公、肥後の国救い給ひしお殿様
お慈悲深い御大将、神か仏か此の世からなる菩薩様

鬼をもひしぐ御大将、そしてやさしい加藤殿、ちんちくりんの鼻髭は
まさかの時の用意げな、武者のよさよさ

尾張ことばに肥後なまり、どっちが梅やら桜やら、国の守りにゃかわりゃせん

如水どんが肥後の城日本一と褒めたげな。褒めた如水は腹黒田、よいとなよいとな。

今度こなたにお城が出くる。攻めてきてみい薩摩と肥前。豊後衆なんきゃ撫斬りじゃ。


清正は肥後の英雄でござる



13 :人間七七四年:2007/03/27(火) 16:50:13 ID:VPYJrwQ6
猛将のイメージとともに、築城にしても人心掌握にしても物凄く緻密な職人気質を感じる。

熊本とは縁もゆかりもないけれども、清正公は好き。



24 :人間七七四年:2007/03/30(金) 03:19:52 ID:Yi9Sxuac
124:人間七七四年 :2007/03/28(水) 15:53:51 IDD:vq3kyPAI [sage]
加藤清正が京都に来た際福島政則と茶を飲むことになった。
茶室で部屋掃除をしていた二人の近衆がふざけて暴れて壁に穴を空けてしまった。
速めに着いた加藤は二人から事情を聞き不問として帰した。
福島が来ると真っ先穴を見つけ
「なんだこの穴は?」
っと不機嫌になった。
加藤が事情を説明すると
「なぜその二人を切り捨てない」
と怒った。加藤は呆れて
「お前は戦はできても仁愛の欠片もない日本一人使いが出来ない奴だ。
若者達を成敗してどうする?子孫の事を思えば逆をとられよ」
と呆れられた。



29 :人間七七四年:2007/03/31(土) 09:28:13 ID:LmLJaGes
>>24
何かそれあまり良いエピソードには思えないな
粗相が有った若衆を切り殺すのは行き過ぎだろうが、
碌に注意もせずに放免するなんて教育上良くないんじゃないか
清正死後加藤家には碌な人材がいず、結局すぐに幕府に改易されちゃうんだけど、
その遠因に清正の教育不届きも有ったんじゃないかと思う


30 :人間七七四年:2007/03/31(土) 11:46:52 ID:gpgcL+jv
問答無用で切り捨てようとした福島に忠告しただけで、
別に無罪放免にしろといったわけではないんじゃない?
こういう逸話で前後の細かいところまでわかるわけじゃないけどさ。


31 :人間七七四年:2007/03/31(土) 17:47:49 ID:I38wHb7Q
そうかな。
そもそも発端からして教育がなってないエピソードだけど。


32 :人間七七四年:2007/04/01(日) 03:26:35 ID:agUvHCjU
俺の訳仕方が悪かったが壁を壊したのは清正の家来じゃないです。
この訳の仕方ではただの家臣に甘い人ですね(´・ω・`)
加藤の家臣育成の考え方や性格を伝えるつもりが
いらぬ誤解を与えてしまって申し訳ない。




25 :人間七七四年:2007/03/30(金) 17:42:54 ID:5E4j/gha
主人が客をもてなす準備しなきいけない所を遊んでて、ましてその場所汚すなんてありえない不届きで
教育がまるでなってないのが良く分かる逸話だな。
それを教育し直すわけでもない体たらく。
まあ、それしてるなら近習がそんなザマのわけないから当然だけど。
やっぱり加藤はだめだな。
さすが卑怯な裏切り者だけの事はある。




26 :人間七七四年:2007/03/30(金) 23:58:38 ID:fEIgkOu7
加藤清正といえば武辺者という印象が強いが、
実際は卓越した行政手腕の持ち主であった。




105 :人間七七四年:2007/07/30(月) 20:34:17 ID:rwSis5qt
関ヶ原の時、清正の頭の中では戦後の政権はどうなると考えていたのだろうか?
①家康の天下になる、そして加藤家も徳川の下で繁栄をめざす。
②家康は律義者だから豊臣の天下を奪うことは無い。
③とりあえず三成・小西を潰す。あとのことはよくわからない。
私は①と思うが…。清正の豊臣家への忠誠心とはどういうものだったのか?
みなさんご意見よろしく。



106 :人間七七四年:2007/07/30(月) 21:19:02 ID:ZqDAAZWi

>>105
ちょっと複雑だが、当時の清正の考えについての個人的な意見は以下の通り。

・三成ら西軍一派は恐らく敗北するであろう
(自分を含む武断派を政権中枢から追い落として敵に廻している以上、
 弱小官僚と外様の寄り合い所帯。所詮は烏合の衆である。故にまずは
 家康方につく。明確な豊臣家の後押しもない以上、大義名分においても
 彼らを助ける義理は無し)

・少なくとも1年、長ければ2~3年戦乱が続く
(北の上杉、西の毛利は大老でもあり、家康相手となった以上は粘らねば
 後がない。流石にいずれか片方が一発勝負でスッテンテンになるとは
 思えない。)

・戦乱の間に黒田如水と自らで九州平定。
(黒田救援に向かうも如水の健闘を見て引き返し、小西領を攻め、さらに
 薩摩国境へ向かう。)

・いずれ家康は豊臣家と敵対するであろうが、そのときは門閥ともいえる
 自分が旗頭となり、平定した九州の兵力と秀頼の威光を頼みとして徳川
 に対峙する(少なくとも家康を掣肘できる。それでも彼が無理を通せば
 現在の三成以上の大義名分を唱えて豊臣譜代を糾合できる。三成は
 滅んでいるか、結局自分に土下座せざるを得ない、いやさせてやる)

しかし、その気になった直後に三成一派は関ヶ原であぼーん。一大名として
の現実路線へ方向転換、といったところか。①に近いが、それなりの大望は
抱いたかと考える。



107 :人間七七四年:2007/07/30(月) 21:39:59 ID:aW6JzreG
普通に家康についたほうが安泰だからついたんだろ。
三成嫌いだし。若干後ろめたさはあっただろうけど
秀頼公は出てきてないしね。
秀頼担いで毛利が出てきてたら西軍に最初からついてたよ
徳川が豊臣の家臣なんてことは考えてなかったと思うけど
まさか豊臣家つぶすなんて思わなかったんじゃないのかな。

段々賢くなって、それに気づいて動いたけど
残念なことに死んじゃったと。殺されちゃったみたいな

関が原後の清正公の変わり様はすごいね。落ち着いたというか
そんなとこが好き



108 :人間七七四年:2007/07/31(火) 10:54:06 ID:AgK/ThPc
事実が確定してから振り返るからあれこれいえるけど、実際流れの中にいる時はそうそう明確な転換期なんて
気づかないもんだよな。
家康ってのは、金ヶ崎でも三方ヶ原でも自身の損得以外に見える動き方してるし、律儀な人物に見えてただろう
事は想像に難くない。
秀吉が死んで専横な振舞いするようになったけど、それも政権の中で権力を握ったという理解の範疇での事で、
まさか秀頼を除いて政権簒奪するとまではそうそう思われなかったろうね。
現実に、大谷でも関が原直前まで家康に従って上杉征伐行こうとしてたわけだし。
三成ぐらい目の利く奴じゃないと分からないんだから、加藤程度じゃ豊臣の派閥抗争程度にしか理解できて
なかっただろう。
それで家康につくか三成につくかといえば答えは明らか。
そんな感じだったと思うな。



143 :人間七七四年:2007/11/15(木) 13:07:58 ID:Tir4q9DS
結局清正や福島正則も秀吉が完成させた職豊流戦略を忠実に実行する手足としての
人材だから、豊臣家の子飼いの武将に「武断派」なんていないんだよな(浅野幸長とか
毛利勝永とか、元羽柴軍団の与力武将や元々武士だった家臣の子弟には結構武辺者
がいるけど)
同じ軍事テクノクラートが内部分裂したのを「武断派と文治派の対立」だとか、あるいは
「尾張派閥と近江派閥」「北政所派と淀君派」等と後世勝手に尾ひれつけただけで
何しろ実際に北政所と一番懇意にしてたのは清正や正則じゃなく三成らしいから




144 :人間七七四年:2007/11/16(金) 07:34:45 ID:qzMlLSfa
佐吉「そんな事も知らんのかこのバカ!」
虎之助「あ、バカって言ったな!バカって言った方がバカなんですぅ!」
佐吉「バカって言った方がバカって言った方がバカなんですぅ!」
虎之助「バカって言った方がバカって言った方がバカって(ry」
ねね「止めなさい!アンタ達は!」


こうですか?><



152 :人間七七四年:2007/11/20(火) 15:26:10 ID:Hp54Rz6J
俺んちの近くに清正の叔父が住んでいたという神社があってそこにも清正の武勇伝が残ってる
なんかその叔父の家に盗賊が入った時清正はその家の中で一番高価なものが入っている箱の中に入ったそうな
んで盗賊がその箱を開けた瞬間に鬼のお面を被った清正が盗賊を追い払ったらしい
まぁ真実かは定かではないがww



153 :人間七七四年:2007/11/20(火) 17:17:28 ID:6DHPsrAW

>>152
清正も暇な戦国武将だなwww



156 :人間七七四年:2007/11/21(水) 23:02:48 ID:Or9gMCNj
>>153

あとこれ清正が子供の頃の話しなww



173 :人間七七四年:2008/01/20(日) 03:13:06 ID:1Qg8SXtK
安土城つくった丹羽長秀
安土のモデルといわれ日本初の天主を作った松永秀久>築城



174 :人間七七四年:2008/01/20(日) 11:05:18 ID:qpjmYZdV
松永秀久って誰でっか?


175 :人間七七四年:2008/01/20(日) 12:15:00 ID:tcLM7pw5
>>174
戦国時代のサイバイマン



176 :人間七七四年:2008/01/21(月) 20:12:14 ID:VibRKRBK
斉藤道三が生まれ変わって松永になったのは結構有名な事実


303 :人間七七四年:2008/10/11(土) 11:11:17 ID:p59WkqTA
関ヶ原の清正って存在感薄いよね
でもそのわりには関ヶ原後の恩賞がすごいなー
詳しい人に質問
清正が関ヶ原で評価されたのってどの辺り?
立花に降伏勧めたくらいしか知らないんだけど(あと最後の方宇土城攻めたくらい?)





305 :人間七七四年:2008/10/11(土) 22:32:24 ID:KTk2Zx3C
>>303
秀吉死後、家康の養女を一番最初にもらった
これによって、福島や伊達や蜂須賀がマネをする気になった
家康にたてついていた三成を、徒党を組んで追い回して失脚させた
この二つが徳川に与えたメリットは計り知れないだろ




307 :人間七七四年:2008/10/11(土) 23:24:01 ID:zuI8LVlr
>>305
朝鮮では熊谷直盛や福原長堯など三成と縁組を結んだ連中が優遇され
徒党を組んで加藤に讒言を仕掛けてきたんだよ
対抗するために家康と縁組を結び徒党を組んで三成と対抗するのは当然のことだろ
あくまでも先制攻撃を仕掛けてきたのは三成であり加藤の行動は正当防衛でしかない




354 :人間七七四年:2008/10/21(火) 23:55:42 ID:CMDdnxlL
三成は秀吉の組んだプログラムのとおりに動くロボットだから
秀吉が朝鮮で軍を監視しろと入力されたため何も考えずにひたすら監視し続けたのだと思う
三成が戦を苦手としていたのも何が起こるか分からない戦場において
プログラムでしか動けない三成ではその対応に限界があるからだろう
清正の三成への不満は現代人が壊れかけのパソコンを使った際に感じる不満に例えれば分かりやすいんじゃないか?



355 :人間七七四年:2008/10/22(水) 21:09:47 ID:b9lmSGgP
>>354
壊れかけのパソコンw
なんかそう考えると三成って可哀想なやつかも(´・ω・`)




357 :人間七七四年:2008/10/26(日) 22:20:17 ID:FzFyYKom
熊本城を無理やり南から攻めた薩摩は馬鹿。
そして清正が作った田原坂を利用して官軍止めれない薩摩軍はやる気なさすぎ



358 :人間七七四年:2008/11/01(土) 21:00:48 ID:1JEe4e2O
>>357
熊本城や田原坂での戦いを熟知しているのは作った本人である清正だけだろうな
西南戦争も清正が指揮すれば天守も消失しなかったかもしれん
実際に砲弾は天守に着弾しなかったみたいだしな
田原坂でも清正の指揮なら官軍は撤退していたかもしれん
まぁ、要するに、谷や薩軍程度でもそれなりに戦果を上げれる物を作った清正が凄い



362 :人間七七四年:2008/11/01(土) 22:16:01 ID:oAl7QXu/
やっぱり三成はそれなりに評価されるべき武将だったと思う。
まず政治力なら奉行に選ばれたり、刀狩り、太閤検地を各地でやっていたわけで優れていた。
忠義の面でも自分の領国は20万石しかなかったのに大大名の家康相手に豊臣家を守ろうとした。
そしてなんといっても味方の引き入れ、結果的には戦意の低い軍だったが五大老の毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝も味方にし
同等の兵力に持ちこむことができたのは事実。
それに関ヶ原戦場では松尾山城(仮)を作るなど、戦略眼もなかなかだったようだ。



489 :人間七七四年:2009/11/01(日) 12:16:04 ID:NJGlnQ9w
清正がなんで名将扱いされるんだ?
俺には時勢を読めないただのバカにしか思えない
秀吉のおかげで大名になれたのに、同じ豊臣恩顧の大名とケンカ
著しく豊臣家の力を落とし、徳川の世にした張本人の一人ではないか
一貫性のない清正が秀頼を守ろうとしても、時すでに遅し
清正が名将と言う奴は、どこを見て名将と言うのか教えてくれ



491 :人間七七四年:2009/11/04(水) 21:32:37 ID:+e7mwcU1
>>489
清正は武勇も去ることながら、政治、治世にも長け、九州最大の荒れ地でもある肥後を
実質石高74万石までの九州最大の大国にし、時は過ぎ明治になっても九州に清正ありと呼ばれた戦国武将。
時世も普通に読めたていたと思われる。寧ろ清正の考えに対する者こそが異端な扱い。
だがしかしそれも、清正の側近や家臣達が他の藩よりも有能だった所為でもある。
が、それでも清正の人を見抜く眼と、自身の人徳無しでは為し得ない偉業。
清正が名将である理由として、武勇だけでなく、現代にまで残る遺構を見れば馬鹿にでも分かる。

常に先を見据え民の為に尽力を尽くす。

清正以上にこの事を為し得てる武将など誰一人存在しえない。
秀吉も清正の偉大さを認め、隠居後は清正が復興した肥後に住もうかとも言ってる。
家康も清正が建てた熊本城には大いに恐れていた事であろう。
隣国島津の薩摩も清正の好意で穴太の石工衆を借り事業を展開している。
それぐらい偉大な遺産を僅か20年余りでやってのけた清正。
その名声は肥後だけでなく、九州に、そして全国にまで広げる。
清正入国以後、細川や西郷が清正に頭が上がらなかったのは、清正のやった事が
武将の範疇を越えてたからに過ぎない。清正に並ぶ武将は無し。ただの猛将、戦略家ではない。
単に己の信念の元、民の心を汲み、時世を読む眼、人を率いる行動力を持った唯一の武将。
それが現在まで名将と呼ばれ戦国一の武将である加藤清正。




588 :人間七七四年:2010/01/18(月) 15:52:30 ID:fSrKhK7b

加藤:自重とか知らない駄目人間
石田:空気が読めない駄目人間





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コメント
王様扱いウマーw

まさかオ ナ ホをあんな風に使ってくるとは思って無かったぞ( ̄0 ̄)w

一日経ってもまだ下半身ヒクヒクしてるし(;´▽`A
キングダム #rIECbtzM|2010/02/08(月) 10:03 [ 編集 ]
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