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小西行長 、加藤清正 、島津義弘 で誰が一番最強?

2009/11/01(日) 22:28:36

小西行長 、加藤清正 、島津義弘 で誰が一番最強?
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1140631671/

4 :日本@名無史さん:2006/02/23(木) 03:36:21
朝鮮征伐では、後藤又兵衛が頑張ったそうじゃないか。



5 :日本@名無史さん:2006/02/23(木) 04:57:48
小早川秀秋は獅子奮迅の活躍



7 :日本@名無史さん:2006/02/23(木) 07:39:28
島津は加藤にはサシでは絶対に勝てないので、
小西を入れているのが苦笑を誘う。




10 :日本@名無史さん:2006/02/23(木) 16:16:19
確かにタイマンなら清正>義弘という気はするがな。






13 :日本@名無史さん:2006/02/24(金) 23:32:11
清正のイメージは熊本城にいるラスボス



17 :日本@名無史さん:2006/02/25(土) 13:33:40
一対一のガチ殺しあい斬り合い戦場での第一線のマジ強さでは、義弘が最強
部下から怖れられてた性格プラス国造りなど政治的なことまで総合でやると清正




19 :日本@名無史さん:2006/02/25(土) 21:28:21
木崎原の戦い ○義弘軍2百 対 ●伊東軍3千
島津のお家芸、釣り野伏で見事勝利。 義弘、槍の達人柚木丹波を一騎打ちで討ち取る。 この戦いでミリタリーバランスが島津に傾く。

耳川の戦い  ○島津軍2万 対 ●大友軍4万5千
九州の覇者を賭けた戦い。 義弘の冷静沈着な側面攻撃と家久の同時攻撃で勝敗が決定。 こんな大規模な野戦をガチでやって大友軍の死者2万人、 重臣多数戦死という一方的な大勝利を収めている。
稀な大勝利、武田信玄 対 上杉謙信の川中島合戦と比べるとその大勝利ぶりが際立っている。 以後、大友は衰退。

沖田畷の戦い ○家久・有馬連合軍5千 対 ●龍造寺軍6万
龍造寺はこの戦いで隆信、四天王を失い島津の傘下に入る。 戸次川でも長宗我部信親・十河存保を討ち取るが、指揮官を討ち取るというのは野戦では珍しく、それを何度もやり遂げている島津家久は戦国一の戦上手といえよう。

戸次川の戦い ○家久軍1万 対 ●豊臣四国連合軍
寄せ集めにすぎない連合軍は歴戦の勇将・家久の敵ではなかった。 この戦いで長宗我部信親・十河存保戦死。 長宗我部元親、ショックで廃人になる。

泗川の戦い ○義弘軍7千 対 ●明・朝鮮軍20万
慶長の役の末期に秀吉が死んだので、 朝鮮にいる将たちに帰国命令が下りる。 それを知った明軍・朝鮮軍は20万の軍勢を日本軍の中央を守る義弘の泗川に向ける。
義弘は、泗川にいくつかあった支城を破棄、泗川に新たに築いた城に立て籠もる。
ここで敵を引きつけるだけ引きつけてから鉄砲の一斉射撃ののち突撃し散々に打ち破った。 また自らも刀を振るって奮戦した。 明軍の死者は8万。

露梁津の海戦 ○義弘軍 対 ●朝鮮水軍
この時も義弘は水軍を率いて活躍。 順天の小西行長を救出し、さらに全軍の殿を務め、 朝鮮の名将・李舜臣と交戦し見事討ち取る。日本軍退却成功。
もし義弘が朝鮮出兵に参加してなかったら日本軍は朝鮮で全滅してた。 秀吉は大名の領地加増を禁止してたが 島津だけはあまりの戦功の大きさに加増された。

関ヶ原退却戦 ○義弘軍3百 対 ●東軍8万
福島隊を突破、追撃してきた井伊直正と松平忠吉に重傷を負わせる。 この傷が元で2人は数年後死亡。
大阪城に残された妻を取り戻し、薩摩へ無事帰還。 家康は島津を恐れ、関ヶ原後も減封する事が出来なかった。




23 :日本@名無史さん:2006/02/25(土) 21:31:37
◆島津はカエサルより強い説

龍造寺隆信は宣教師にカエサルに例えられた
しかし島津はそれに寡兵で完勝した

つまり島津>>>>>>>>>カエサル


島津兄弟は戦バカというように見られがちだが

実際には学問・文芸の素質があり、
義久は古今伝授(選ばれた者だけ「古今和歌集」の全巻の解釈・秘奥が伝達される)を受けた。

茶の湯を愛した義弘は、千利休の弟子であり、また「維新公御自記」という著作も残す文人。



25 :日本@名無史さん:2006/02/25(土) 21:39:00
関ヶ原の戦いの、”敵中突破”で知られる島津義弘は、和歌や茶の湯のたしなみもあり、
文武兼備の名将であるが、さらに外科の医術にも通じていた。

得意としたのが傷の手当てである。合戦では、刀や槍を受けて負傷するケースはざら。
また傷が化膿しておでき、丹毒などの皮膚病を起こす事も多い。
武士たる者は多少の応急処置を施せるのが普通だが、義弘の医術はプロ級だった。

負傷者が出ると義弘自ら診察に出向いたという。
このとき、傷の専門家を伴い、義弘が診察した結果を確認させ、手当てを施させている。

義弘の医術は奥義を極め、家臣らに伝授もしている。
そのなかには、すでに医学を修得したものもいたというから、義弘の医術知識はかなりの域に達していたのだろう。




29 :日本@名無史さん:2006/02/27(月) 22:25:02
関ヶ原のとき島津軍は加藤清正の支城、佐敷城を落とせずに撤退した。
関ヶ原のとき加藤軍は小西行長の家臣が守る宇土城を落とせず、
関ヶ原の敗戦を知らせる使者を入城させてようやく開城させた。
よって結論は

小西>加藤>島津




43 :日本@名無史さん:2006/03/02(木) 02:55:21
李舜臣程度の雑魚はどーでもいいが、
明の大軍数万をわずか5000の兵力で返り討ちにした島津は敵味方に畏怖された。
秀吉は朝鮮での戦果について加増を禁じていたが、
島津の活躍ぶりは別格だったので唯一例外として加増された。


46 :朝鮮兵士:2006/03/02(木) 18:57:02
小西行長は武勇に優れている訳でも無いし、
加藤清正や島津義弘ほど、軍の指揮が上手い訳でもないでしょう。
よって、小西はボツ。
これからは、鬼石曼子VS虎之介の時代が来る・・・・




48 :日本@名無史さん:2006/03/02(木) 20:26:30
島津の末裔たちは、明治時代になっても清正の建てた熊本城を抜けなかったのだよ。


49 :日本@名無史さん:2006/03/02(木) 20:34:31
>>48
だが、そのときはすでに加藤家の居城ではなく、
さらにいまだに島津家は残っているが、加藤家は?




50 :日本@名無史さん:2006/03/02(木) 22:09:35
>>49
加藤家の偉大さは血縁が末代まで残った事じゃなくて、
その後、現代に至るまで熊本人の信仰対象になるほど、
国造りに大きな影響を残したことにあるの、わかる?




51 :日本@名無史さん:2006/03/03(金) 12:03:52
>>50
それを言うなら島津家のほうがよほど影響を残してると思うが。
というか明治維新の原動力となった家だぞ。




52 :日本@名無史さん:2006/03/03(金) 12:33:44
その島津が手も足も出ないのが、清正の作り上げた熊本だからな。
島津より清正だろ?




53 :日本@名無史さん:2006/03/03(金) 12:35:29
朝鮮の役で日本のために役に立った武将。
高←←←←←←←0→→→→→→→低

徳  島  小    加   豊
川  津  西    藤   臣




55 :日本@名無史さん:2006/03/03(金) 13:12:33
清正から見たら、島津は雑魚以外の何者でもないんだよなぁ。



56 :日本@名無史さん:2006/03/03(金) 13:20:10
この3人じゃ加藤清正が最強。島津は1人じゃ小西行長以下。



63 :日本@名無史さん:2006/03/03(金) 19:30:59
たしかに、200年統治した細川氏より、熊本=加藤清正というイメージ
を今でも抱かせる清正の存在感はすごい。
ちなみに熊本城三大天守ができたのは忠広の代? それとも細川氏に
なってから?




74 :日本@名無史さん:2006/03/04(土) 00:09:00
朝鮮出兵
その後は一変して豊臣政権に対しては協力的で、
1592年からの文禄の役、1597年からの慶長の役のいずれでも朝鮮へ渡海、
その武勇を遺憾なく発揮した。
1597年に藤堂高虎らと共に元均の朝鮮水軍を沈めている。
1598年の泗川の戦いでは董一元率いる明軍37000人の大軍を7000人の寡兵で打ち破り、
敵兵を斬首すること数千に及ぶという大戦果を挙げ、
義弘率いる島津軍は「鬼石曼子」と呼ばれて恐れられたと言われている。
露梁海戦では大きな損害をこうむったものの、李舜臣に致命傷をあたえた。

 
wikiにはこうある




79 :日本@名無史さん:2006/03/04(土) 16:43:09
明の精鋭10万人に強襲された蔚山城を救う為に、たった300騎で
、大軍の中を突き抜け、蔚山城を守った清正公は最強だな。




80 :日本@名無史さん:2006/03/05(日) 00:04:04
関が原の戦いで西軍についたのもかかわらず、
島津は領土安堵どころか、一人の処罰者もださなかった。
加藤家は息子の代で取り潰し、小西にいたっては死刑
結果から言ったら一目瞭然。




103 :日本@名無史さん:2006/03/07(火) 06:14:43
○清正対小西×
関ヶ原で加藤領に吸収合併
○清正対島津×
清正の熊本城の前に成す術なく平伏した。




138 :日本@名無史さん:2006/03/15(水) 03:18:31
個人と軍団ってw
軍団と呼べる程のもんか?徳川
寧ろ、徳川の全盛はせいぜい二、三国程度の軍事力の頃だろう
大軍団になったはいいが、総大将の家康含めて、大軍を率いる能力がある奴が居ない
四天王だって数百~一、二千の隊長やってるのが器だろう
家康本人も一、二万の大将である事が関ヶ原で露呈してるじゃん
戦争らしい戦争を経験してないから錬度は下がる一方だろうし




146 :日本@名無史さん:2006/05/16(火) 23:55:50
>>138
ということはその家康に歯が立たなかった西軍は糞雑魚だな
島津の前進退却なんて早い話が部下を盾にした敗走に過ぎないんだし



148 :日本@名無史さん:2006/05/17(水) 13:45:24
>>146
真面目に戦っていたのは宇喜多、石田、小西くらい。
それでも裏切りの前までは押していたのがスゴイ。
実際の戦闘では徳川は強くないが、政治力や謀略の才は多少あったようだ。




161 :日本@名無史さん:2006/06/06(火) 16:52:45
>>148
>真面目に戦っていたのは宇喜多、石田、小西くらい。
大谷も忘れないでください



208 :日本@名無史さん:2006/08/22(火) 23:31:18
熊本の交通事情が悪いのは清正が元凶



209 :日本@名無史さん:2006/08/28(月) 11:36:43
>>208
熊本市内は敵が攻めてきても防衛しやすいように
攻めにくいように道の準備も完璧だったからな
悪いのはその街を整理せずにそれを基礎に町造りした戦後
あれ基礎に街作るか……









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コメント

最近いろんなとこで持て囃されててあまり好きじゃないけど戦績も影響力もダントツで島津だね
自民党員に九州出身者が多いのも元はといえば島津家の活躍からだしねー
黒夢のファン #-|2009/11/16(月) 19:22 [ 編集 ]

つまり数倍の島津義弘・家久軍を防いだ宮部継潤最強と
一般兵 #-|2009/11/19(木) 06:17 [ 編集 ]

伊達政宗、真田信繁と同世代の立花宗茂夫妻のことも話題にしてあげて下さい
一般兵 #-|2009/12/11(金) 01:49 [ 編集 ]
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